空港の冷たい床に倒れ込んだアキを抱きしめ、朔太郎はただ叫び続けていた。駆けつけたアキの両親の絶望に満ちた顔、遠のいていく意識の中でアキが見たのは、雨に濡れた朔太郎の涙だった。
しかし、その夜を境に、運命の歯車は誰もが予想だにしなかった方向へと回り始める。
搬送先の病院で緊急処置を受けたアキは、数日間の昏睡状態を経て、奇跡的に目を覚ました。そして、さらなる驚きが医師たちを襲う。適合するドナーが極めて見つかりにくいとされていたアキの病状に対し、海外のバンクから「完璧な一致」を示す通知が届いたのだ。
「サク、私、まだ生きてていいのかな」
真っ白な病室で、髪を失い、痩せ細ったアキが呟く。朔太郎は彼女の手を強く握りしめた。 「当たり前だろ。神様が、嘘をついた僕を許して、アキを返してくれたんだ」
過酷な移植手術、そして想像を絶するリハビリの日々。アキは何度も高熱にうなされ、吐き気に苦しんだが、その傍らには常に朔太郎がいた。彼は学校の合間を縫っては病室に通い、オーストラリアのパンフレットを読み聞かせ、アキの耳元で「二人で行くんだ」と魔法のように唱え続けた。
そして、季節は二度巡り。 アキの体内の数値は、ついに「完治」を告げる安定を見せた。
赤い大地の中心で
陽炎が揺れる、果てしないほどに真っ赤な大地。 オーストラリアの中央部に位置する巨大な岩体「ウルル」の前に、二人の若者が立っていた。
かつて、空港の待合室で力尽きようとしていた少女の姿はどこにもない。そこには、短く切り揃えられた健やかな髪を風になびかせ、日焼けした肌を輝かせるアキがいた。
「すごいね、サク。本当に、地球のへそに来ちゃったんだね」
アキは大きく息を吸い込んだ。乾燥した、命の匂いがする風が肺を満たす。朔太郎は、隣に立つアキの体温を確かめるように、そっと肩を抱き寄せた。かつて骨が浮き出るほど細かった彼女の肩には、今、確かな生命の弾力があった。
二人は、先住民のアボリジニが聖地として崇めるその巨大な岩の前に立ち尽くした。夕日に照らされたウルルは、まるで燃え上がる心臓のように赤く、激しく、沈黙の中に圧倒的な存在感を放っている。
「サク、私、ずっと言いたかったことがあるの」
アキは朔太郎の手を振り切り、数歩前へと駆け出した。地平線まで続く広大な荒野に向かって、彼女は深く、深く呼吸を整える。
「あの時、病院で死を待っていた時……私は、世界には終わりしかないと思ってた。でも、サクが私を連れ出してくれた。あの雨の空港で、私を呼んでくれた。だから、今の私があるんだよ!」
アキは、その細い体のどこにそんな力が残っていたのかと思うほどの声量で、真っ青な空に向かって両手を広げた。
「おーい! 私は生きてるよー!!」
アキの叫びが、乾いた大地に響き渡る。
「サクが大好きだー!! ずっと、ずっと、一緒にいるぞー!!」
それは、かつて病室で交わした交換日記の言葉でも、テープに吹き込んだ弱気な遺言でもなかった。今この瞬間、この世界を謳歌している一人の女性としての、魂の咆哮だった。
朔太郎は、こみ上げる涙を隠そうともせずに笑った。 「アキ! 声がデカすぎるよ!」
「いいじゃない、ここは世界の中心なんだから! 誰にも遠慮なんてしないよ!」
アキは振り返り、満面の笑みで朔太郎に駆け寄った。そして、彼の胸に飛び込む。 「サク、ありがとう。私をここに連れてきてくれて。私を、生かしてくれて」
「……僕の方こそ。生きていてくれて、ありがとう、アキ」
沈みゆく太陽が、二人の影を長く、長く大地に伸ばしていく。 かつては「死」という絶望の象徴だったこの旅は、今、二人の新しい人生が始まる「産声」へと変わった。
ウルルの頂に一番星が輝き始める。 二人は手をつなぎ、一歩ずつ、自分たちの未来へと歩き出した。 もう、悲鳴のような叫びはいらない。 これからは、二人で紡ぐ穏やかな言葉が、この広い世界を満たしていくのだから。