時の結び目(The Knot of Time)

by J.R.R. トールキン | 👍 4 いいね

序章:忘却の霧の到来

一.

かの指輪が滅び、太陽が再び西方より昇りて、すでに幾千年の時が流れたのであろうか。中つ国の第三紀は、遠い神話の彼方に消え去った。しかし、人間は、かの大いなる戦いの教訓を長く記憶することができぬ種族である。彼らは、自らの手で、新たな、そしてより狡猾な闇を世界に招き入れてしまった。

この時代を覆うのは、もはやサウロンの火や、モルゴスの瘴気ではない。それは、無音で、無臭の、しかし魂の奥底まで冷やす「忘却の霧(The Mists of Oblivion)」である。

霧は、人々の周りの世界を、急速に、そして静かに漂白しつつあった。古い石は、ただの「建造物」となり、古語は、ただの「記録」へと変わり果てた。霧は、過去と現在の間に、厚いガラスの壁を築き上げ、人々の心から「時間の深さ」と「言葉の重み」を抜き去った。

彼らは、技術という名の輝かしい玩具に囲まれ、物質的には豊かであったが、彼らの精神は飢えていた。彼らは、毎日を生き急ぎ、過去を顧みず、そして言葉を使い捨ての道具のように消費した。彼らが紡ぐ言葉は短く、その発する音には、かつてのエルフ語が持っていた、創造の響き(The Sound of Creation)が欠けていた。

世界が、急速に平坦な、魂のない絵画へと変わっていく中、結び目の地(アデルランド)――すなわち、現代のロンドンと呼ばれる、鉄とガラスの巨大な迷宮――の地下深くに、太古より生き続ける種族がいた。

二.

若きエステル・ウッドワードは、この霧の時代に生きる、一人の平凡な人間であった。彼は、大学の歴史言語学の講義棟の、黴臭い空気を吸い込むのを好んだ。なぜなら、そこだけが、彼にとって、霧が薄い、僅かな聖域のように感じられたからだ。

彼の周囲の友人は、誰もが「簡潔さ」と「即時性」を愛した。彼らは、短縮された言葉、意味を欠いた絵文字で会話を終始させ、辞書に載る何万もの単語は、もはや死んだ過去の遺物であるかのように扱われた。

しかし、エステルは違った。彼は、古い文献の、崩れかけたフォントや、失われた言語の文法規則に、耐え難いほどの美と、「重み」を感じていた。

彼はしばしば、夢を見た。それは、霧に覆われた現代の都市の夢ではない。緑の丘と、遠くで響く、金属の甲高い音が混じった、異様な夢であった。彼は、夢の中で、自分が理解できないが、心の奥底で熱く共鳴する、三つの音節の言葉を聞いた。

「ティン・ヴェリ...」

ある雨の午後、エステルは、大学図書館の、立ち入り禁止の札が貼られた古い書庫に忍び込んだ。そこには、忘れ去られた、歴史の塵が積もっていた。彼は、棚の最も奥、光の届かぬ場所で、一冊の、手製のように装丁された、奇妙な書物を見つけた。

それは、羊皮紙ではなく、樹皮のような質感の紙に書かれていた。そして、その文字は、ラテン文字でも、英語でもなかった。それは、彼が講義で僅かに触れたことのある、トールキン教授が、遊びで作ったとされる架空の文字、テングワールに似ていたが、もっと古く、もっと複雑であった。

エステルは、書物を手に取った瞬間、全身に電撃のような衝撃を受けた。それは、書物の重みではなく、「時間」の重みであった。

その本を開いた最初の一頁には、彼の名ではないが、彼にとって重要な響きを持つ名が、優雅な古代の文字で記されていた。そして、その下に、現代の文字で、震えるような筆跡が付け加えられていた。

「時の結び目(The Knot of Time)。この書は、第四紀の終焉と、アデルランドにおける、三つの世界の交差を記す。霧は濃く、言葉は砕けた。しかし、魂ある者は、その根源的な真実を探し求めよ。忘れるな。あなたが探しているものは、もはや紙の上にはない。それは、言語の木(Logos)の、最後の実である。」

三.

その夜、エステルは眠ることができなかった。彼は、書庫で見つけたその書物を、自室の机の上に広げた。彼は、テングワールの文字を解読しようと、持てる限りの言語学の知識を動員した。

その努力の末、彼は、その書物が、彼らが住むこのロンドンの地下に、ノルドール(知識のエルフ)と呼ばれる、太古の種族が生き続けていることを示唆している、という戦慄すべき仮説に至った。

そして、書物には、ノルドール族の隠された図書館の、正確な入り口が、古代の謎かけの形で示されていた。

「鉄の蛇が、無限の闇を這い、生ける人々の魂が、疲労の果てに自らを明け渡す場所。そこにある、語られざる名の、三つ目の扉を探せ。」

エステルは、即座に理解した。鉄の蛇とは、現代の地下鉄(チューブ)の路線網である。人々が疲労の果てに、無表情にスマホの画面を見つめる、冷たい駅のホーム。そこにある、「語られざる名の三つ目の扉」。

彼は翌朝、夜明け前の、最も霧の深い時間帯に、その駅へと向かった。

彼の探求は、単なる冒険ではない。それは、世界が忘却しようとしている「言葉の力」と「歴史の真実」を取り戻すための、最後の賭けであった。

エステルが、冷たいタイルに立つと、彼は、この世界が、自分の目に見えるものだけではないことを、確信する。この世界は、まるで、古代の織物のように、無数の「時間」と「言語」の糸で、複雑に編み込まれているのだ。そして、その結び目こそが、彼がこれから踏み入れる、真のファンタジーの領域であった。

彼は、その駅の、誰も使わない、錆びついた保守点検用の扉の前に立った。トールキン的な予感――恐れと、抗いがたい魅惑が混ざり合った感情――が、彼の心臓を打ち鳴らした。

彼は、その扉を、「勇気」という、古代から変わらぬ、人間の最も美しい呪文で開いた。

その瞬間、外の霧の都市の騒音は消え失せ、彼の耳には、遠い古代からの、一つの歌が響き始めた。それは、この世界を創り上げた、言葉の源流の音であった。

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