序章:失われた「現実」
太陽は、もう久しく、単なる高輝度ディスプレイの一種でしかなかった。
「私」――市井の、名の無い探偵、明智小五郎の影を追うような、古風な好奇心だけを頼りに生きる者――は、今日もまた、「現実」という名の失踪事件を追っていた。それは特定の誰かが消えたのではない。世界そのものが、触れられる肉体的な実感を伴わない、薄いフィルムのようなものと化してしまったのだ。
かつて乱歩が愛した、怪しげな路地裏や、肌寒い洋館の秘密は、いまや「データ」という名の、無音で、無限に増殖する暗号の壁の裏に隠されている。
第一章:無貌の都市(パノプティコン)
現代都市は、巨大な「無限の覗き窓(パノプティコン)」である。
人々はみな、手に持った小型の鏡(スマートフォン)を通じて、自らを、そして他者を覗き合っている。この覗き窓の魅力は、自発的なものだ。誰も監視されていないフリをしながら、常に誰かに見られていることを望んでいる。その期待と不安の狭間に、現代の真の異常性が潜む。
現代の異常性:
匿名の群衆: かつての「一人二役」の犯罪は、今や「百人一役」だ。ネット上に溢れる「名無し」の群れ。彼らは、特定の誰かではないが故に、集団的な悪意という名の、巨大な「芋虫」と化して、リアルな個人の生命を蝕む。その芋虫は、叩いても叩いても、痕跡を残さず、次の瞬間には別の場所に湧き出す。
感情のインフレ: 誰もが過剰に喜び、過剰に怒り、過剰に悲しむ。それは本物か? いや、それもまた、画面に「いいね!」という名の血液を注ぎ込むための、虚飾の演技に過ぎない。真の感情は、まるで、乱歩が描いた「屋根裏の散歩者」のように、人知れず、心の最も暗い隅に閉じこもってしまった。
「私」は、この都市が放つ、目に見えない、しかし確実に存在する「情念のガス」に咽びながら、手がかりを探す。
第二章:デジタルな血痕
現代の犯罪は、血痕を残さない。残すのは「ログ(記録)」だ。
ある日、「私」は、一人の青年が、自らのデジタルな存在すべてを消し去って、忽然と姿を消した事件に興味を惹かれる。彼は、SNS、メール、クラウド、果ては監視カメラの記録から、自らの顔の痕跡まで、完全に抹消していた。まるで、自分が存在しなかったことにするかのように。
これは単なる自殺ではない。これは、現代社会における、最も根源的な「自己否定」、あるいは「存在への復讐」であった。
青年は、なぜ消えたのか?
調べを進めるうち、「私」は驚愕の事実に辿り着く。青年が消える直前、彼のアカウントから、無数の見知らぬ人々に、たった一つの「暗号」が送られていたのだ。
暗号:「私は、あなたが想像する『私』ではなかった。」
この暗号は、受け取った人々の心の奥底に、静かに、しかし確実に、「疑念」という名の毒を撒き散らした。
「私の隣にいるこの人は、本当に私を愛しているのか?」
「私が見ているこのニュースは、本当に真実なのか?」
「私が今、生きているという実感は、どこから来ているのか?」
青年の目的は、世界を恐怖させることではなかった。彼が望んだのは、世界に「自己の存在の不確実性」という、究極のミステリーを突きつけることだったのだ。
第三章:二十面相の進化
かつて、名探偵・明智小五郎の最大の敵は、怪人二十面相であった。彼は変装と奇術で、世間を賑わせた。
しかし、現代の二十面相は、変装などしない。彼は、誰もが自発的に提供する「自己の断片」を、巧みに再構成するのだ。
現代の怪人二十面相――仮に「無限面相(インフィニティ・フェイス)」と呼ぼう――は、特定の顔を持たない。彼は、AIが生成した架空のインフルエンサーとして、ある時は、信頼できる情報源として、またある時は、匿名の批判者として、我々の認識の隙間に滑り込む。
彼は実在するのか? それは重要ではない。「無限面相」の真の正体は、我々が「真実」だと信じて疑わない、情報そのものであった。
「無限面相」の最大の犯罪は、特定の財宝を盗むことではない。彼が盗むのは、人々の「信頼」と「現実感覚」である。そして、その盗まれた感覚は、現代社会を構成する、不可視の、しかし最も貴重な財産として、彼のデジタルな金庫に蓄積されていく。
終章:乱歩の微笑み
「私」は、青年が残した暗号の真の意味を悟った。
現代というミステリーの解決は、犯人を捕まえることではない。それは、我々自身が、自分自身の「現実」を再構築するという、極めて個人的な作業を強いられることだ。
乱歩は、人間が心に抱える「異様なもの」「猟奇的なもの」を描き続けた。現代の「異様なもの」とは、「自分が本当に存在しているのか」という、デジタル社会がもたらした、静かで、冷たい、究極の自己疑念である。
「私」は、暗い部屋で、小さな画面に映る無数の顔を眺める。すべての顔が真実であり、同時にすべてが虚偽である。
これは、乱歩が生涯を通じて追い求めた、人間心理の暗黒面が、技術革新という名の毒薬で、極限まで濃縮された姿なのかもしれない。
「現代は、究極の猟奇だ。すべてがガラス張りでありながら、すべてが見えない。ああ、なんと甘美で、戦慄すべき謎であろうか。」
「私」は、そう呟き、深く、乱歩の魂が喜ぶような、静かな微笑みを浮かべた。