午前二時。照明を落とした執務室に、無機質なエアコンの轟音だけが響いている。私はデスクの前に座り、グラスに残った冷めたコーヒーを見つめていた。唇は乾ききり、指先はキーボードの上でわずかに震えている。
今しがた、地獄のような二時間の電話会談が終了した。主役は日本の若きカリスマ、小泉進次郎防衛大臣と、ヘグセス米国防長官。そして、その間で言葉の橋渡しを担ったのが、私、通訳官の佐倉である。
会談が始まる前、私はプロとしての冷静さを保っていた。米国防長官との会談。日米同盟の根幹に関わる重要な場。だが、あの男、小泉大臣の出現によって、私の十数年のキャリアは、未曾有の崩壊へと導かれた。
最初は、順調だった。ヘグセス長官が「中国の海洋進出に対する懸念を共有し、地域の安全保障を強化するための具体的なステップを早急に決定すべきだ」と述べた。
私は即座に訳す。「We share concerns regarding China's maritime expansion, and we must promptly decide on concrete steps to enhance regional security.」
問題は、続く小泉大臣の応答だった。彼は、いつものあの、独特の、論理の円環から抜け出せない言葉を紡ぎ始めたのだ。
「日米同盟の未来について考えるとき、まず考えなければならないのは、日米同盟の未来そのものです。未来というのは、今あるものではない。これから作るものであり、そして、その未来を作るために、今、我々は未来について考えている。これは、まさに今、行動すべきことの証左に他なりません」
その瞬間、私の頭の中に警報が鳴り響いた。いわゆる「小泉構文」。意味を回収しようとすればするほど、言葉の引力に絡め取られ、宙吊りにされる。彼の言葉は、修辞的な美しさを持つ代わりに、実質的な情報量が極限まで削ぎ落とされている。
「日米同盟の未来そのものです」――どう訳す? The future of the Japan-U.S. alliance itself? 「未来というのは、今あるものではない」――The future is not what we have now?
私は、プロの矜持にかけて、一瞬で再構築を試みた。情報を補填し、意味を付与しなければ、長官に通じない。
「彼は、日米同盟の継続的進化の必要性を強調し、現状維持ではなく、未来を見据えた積極的な取り組みが必要であると述べています」と、私は(意訳という名の創造行為を経て)ヘグセス長官に伝えた。
長官は満足そうに頷いた。私は安堵した。これで乗り切れる。私は小泉大臣の言葉の錬金術師として、この場を支配できる、と。
だが、地獄は続く。会談が進むにつれ、小泉大臣の言葉は、その哲学的な円環をさらに深めていった。
「環境問題にしても、安全保障にしても、大事なのは、どう取り組むか、です。なぜなら、どう取り組むかを真剣に考えることこそが、どう取り組むかを実際に行動に移す、第一歩だからです。この第一歩こそが、私は本質だと考えています」
「どう取り組むか」を how we address it と訳し、「第一歩」を the first step と訳す。しかし、彼はこの二語を、同義反復の嵐の中で、何度も何度も重ねてくる。私の脳内の辞書と、文法構築システムは、過負荷で悲鳴を上げた。
終盤に差し掛かる頃、私の精神は完全に疲弊していた。
「この問題に真剣に向き合うことが、真剣に向き合わないという選択肢を排除することに繋がる。私はそう確信しています」という大臣の言葉に、私の意訳の引き出しは空になっていた。もう、彼のために、彼の言葉に実体を与えるエネルギーが残されていなかった。
そして、私は悟った。もう、これは無理だと。これは彼の言葉であり、彼の責任だ。私の役目は、言葉を忠実に運ぶこと。たとえそれが、論理の砂上の楼閣であろうとも。
最後の質問。ヘグセス長官が「次回の共同訓練について、具体的な日程の提案を求めます」と明確に尋ねた。
小泉大臣の答え。
「具体的な日程というのは、具体的な日程である、ということに尽きます。この具体的な日程を決定するプロセスにおいて、我々は具体的な日程の重みを、今一度、噛み締めなければならないと考えています」
私の指は、無感情にキーボードを叩いた。
「A concrete schedule is nothing but a concrete schedule. In the process of deciding this concrete schedule, we must once again appreciate the weight of the concrete schedule.」
長官は、三秒間、完全に無言だった。そして、「Understood. We shall wait for the proposal.」(分かった。提案を待つ)と、極めて事務的に答えた。
会議が終わった。私は、深い、深い虚脱感に襲われている。
彼の言葉は、まるで自己言及的な無限ループだ。始まりと終わりが同じ場所にある円環。私はその円環から、意味の光を抽出する作業に失敗した。なぜなら、光そのものが、彼の言葉には内在していなかったからだ。
私は、彼の言葉を「小泉構文」として蔑む世間の軽薄な笑いの中に、今、引きずり込まれた気分だ。プロとして、私は翻訳に失敗したのではない。私は、存在しない意味を、無理に存在するものとして捏造する作業に、敗北したのだ。
冷めたコーヒーを飲み干す。私は、今夜、永遠にゼロ地点に立ち尽くしている。私のキャリアは、あの無意味な円環に囚われて、出口を見失ったのだ。
けだし、私はこの無限ループの魅力に嵌まった。彼は、そういう人物なのだ。