エピローグ:残された変数(The Lingering Variable)

by アーサー・タンパ | 👍 3 いいね

アーサー・タンパ大統領がホワイトハウスを去り、一年が経過していた。しかし、ジェームズ・パワーズ議長の精神的な戦争は終わっていなかった。勝利は収めたかに見えたが、彼は「客観性の砦」(第一部)が、タンパという予測不能な「ノイズ」(第二部)によって、永久に傷つけられたことを痛感していた。

深夜、ワシントンD.C.のFRB本部のエグゼクティブ・フロアは、まるで冷凍された湖畔のような静寂に包まれていた。パワーズは、重厚なオーク材の机に肘をつき、手元の連邦公開市場委員会(FOMC)の最新議事録を読み返していた。彼の目は、金利の調整に関する冷静で、一切の感情を排した客観的な文言を追っていたが、彼の脳裏で反芻されていたのは、数字ではなく、激しい言葉の残響だった。

「国賊」「眠たい臆病者」「愚かな連中」...

タンパがソーシャルメディア上で無差別に放った言葉の爆弾、即座に市場を震わせた「ツイート・ファクター」は、彼の世界観を根底から揺さぶった。彼は、金融政策という緻密な時計の修理工だった。数十年にもわたるデータとモデルに基づき、長期的な安定という唯一の目的のために存在していた。しかし、タンパは、その時計をハンマーで叩き壊そうとした。パワーズが守ろうとしたのは、金利水準そのものではなく、その決定を下す客観性のプロセス、すなわち中央銀行の「独立性」だったのだ。

彼が深く息を吐き、机上の経済学の古典を閉じた。彼は知っていた。中央銀行の独立性は、法律の条文で守られているのではなく、市場の信頼(コンフィデンス)という、目に見えない、極めて脆弱な心理によって支えられているという事実を。タンパが彼を攻撃するたびに、市場はFRBの未来の行動を疑い、そのコンフィデンスは微細ながら確実に削られていった。それは、パワーズが最も恐れる「システムへの不信」という名の、ゆっくりとした毒だった。

「我々は彼に屈しなかった。しかし、我々は勝利したのだろうか?」彼は静かに自問した。

勝利とは、物価の安定と最大限の雇用を達成することだ。しかし、タンパのレトリックと行動は、市場の期待を完全に書き換えてしまった。市場参加者や一般の人々は、経済の基礎的要因(ファンダメンタルズ)ではなく、政治的な衝動がいつ政策を捻じ曲げるかという「テールリスク」を日々織り込むようになってしまったのだ。この政治的ボラティリティの常態化は、金融環境全体に「ノイズ」として居座り続けた。

そして今、より巧妙で陰湿な問題が表面化していた。

「インフレの心理(Inflationary Psychology)」だ。

タンパの在任中、政府は大規模な財政支出を繰り返し、彼の強引な言動は「政府は何でもできる」という大衆の幻想を強化した。その結果、人々は中央銀行がインフレを抑制しきれないかもしれないという潜在的な不安を抱き、賃金交渉や価格設定の際に、過剰なインフレ期待を織り込み始めた。これは、冷徹なデータや伝統的な計量モデルでは測りきれない、市場の集団的無意識の変容だった。

パワーズは、目の前の議事録の欄外に、自分の筆跡で走り書きされた一文を見つけた。

*「我々は政治家を止められたかもしれない。だが、政治家が作り出した市場の慣性(Inertia)*を止めるには、さらに何倍もの労力と時間が必要となる。」

それは、「独立の代償」(第三部)が、辞任や解任という個人的な犠牲ではなく、国民経済への長期的で不可逆的なダメージという形で現れたことを示していた。

彼の視線は、オフィスから見える夜景に移った。街の灯は静かだったが、彼の胸中は嵐のようだった。その時、彼の内線電話が控えめに鳴った。首席補佐官からの緊急メモだった。

彼はメモを開いた。それは、現在政権を握る、タンパとは対照的に穏健で理知的な後任大統領の側近が、彼の次の任期について、非公式に「もし金利をこれ以上上げなければ、全面的に支持は得られるだろう」とリークしたというものだった。タンパのような荒々しい攻撃ではない。これは、「合理的な圧力」という、もっと洗練され、民主的な手続きを装った、より危険な懐柔だった。

パワーズの口元が、わずかに皮肉な笑みを浮かべた。

「彼は去った。しかし、アーサー・タンパの幽霊は、この建物を永久に彷徨い続けるようだ。攻撃は、より静かに、より巧妙になってな。」

彼はペンを取り、議事録の脚注に、次の利上げの必要性を示すデータを冷静に追加した。それは、彼自身の心の葛藤に対する、経済学者としての唯一の答えだった。

彼にとって、この戦いは政治や個人的な評判のためではない。それは、世界で最も強力な経済を、一時的な感情や短期的な政治的利益から守り抜くという、孤独で終わりのない戦いの象徴だった。彼は知っていた。客観性とは、常に混沌と隣り合わせに存在し、その境界線は日々、警戒をもって再定義されなければならないのだと。

彼は背筋を伸ばし、夜の静寂の中に、最後の決意を固めた。この戦いは、彼が議長を務める限り、決して終わらない。そして、それが彼の負うべき、最も重い責任だった。

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