山本拓は、まだ夜明け前の官邸の書斎で、ひとりコーヒーを啜っていた。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光は弱々しく、まるで彼の胸の内を映すかのように揺れている。
「……総理の夫って、こんなに大変だったかねぇ。」
誰に向けるでもない独り言は、もう日課になっていた。
今日も高市早苗――早苗は、夜通しで会議が続いている。
世界の情勢、党内の駆け引き、記者会見、国際交渉。
そのどれもが彼女の肩にのしかかり、彼女はそれを当然のように受け止めて歩く。
たしかに誇らしい。
けれど、夫としては、正直に言ってしまえば少しばかり寂しい。
「なんで総理なんかに……いや、わかってるんだけどねぇ。」
昔から、彼女は強かった。
一直線で、理論的で、誰よりも真剣に日本という国を思っていた。
惚れた理由もそこにある。
だけど、惚れた相手が総理になるというのは、思っていた以上に落ち着かないものだ。
官邸の警護の視線に慣れたと思ったら、今度はSPにまで「ご主人、外出先のルートはこちらで」と丁寧に誘導される始末。
「わしの散歩道くらい、わしが決めたいんだがねぇ……」
そう愚痴りながらも、心のどこかで誇ってしまうのだから、困ったものだ。
ふと、スマートフォンが震えた。
画面には、短いメッセージ。
──『まだ終わりそうにありません。帰れそうなら帰っていてください』
山本は、読みながら苦笑した。
「まったく……。あなたはいつもそうやって、自分のことより国のことばかりだ。」
ソファに沈み込み、天井を見上げる。
言いたいことは山ほどある。
もっと家でご飯を食べてほしいとか、寝不足が心配だとか、たまには夫の手料理を褒めてほしいとか。
総理の夫という肩書は、世間には華やかに映るかもしれないが、実際のところはただの“心配症の男”でしかない。
けれど、そんな愚痴のすべての奥には、たったひとつの想いが隠れている。
「……早苗。あんたが笑ってくれていれば、それでええんだ。」
その瞬間、玄関の鍵が静かに開いた音がした。
「ただいま戻りました……。まだ起きてたんですか?」
疲れを隠しきれない声。だが、微かに柔らかい。
山本は立ち上がり、彼女のコートを受け取る。
「総理、こんな時間まで働いて。少しは夫の心労も考えてくれんと。」
そう言うと、早苗は珍しくくすっと笑った。
「ふふ……心配かけてますね。でも、あなたが待っていてくれるから、頑張れるんです。」
胸の奥が温かくなる。
愚痴も文句も、すべてこの一言で帳消しになるのが悔しい。
「まったく……。そんなこと言われたら、また惚れてしまうじゃないか。」
「なら、惚れ直してもらえるよう、明日も頑張ります。」
机の上には、二人分のマグカップ。
夜は深いが、心の距離は近い。
山本はそっと、彼女の手を握った。
「早苗。総理の夫は大変だぞ。けど……あなたの夫であることは、悪くない。」
早苗は照れたように微笑む。
──総理である前に、彼女は愛しい妻だ。
その事実だけが、山本の愚痴を甘いものへと変えていくのだった。