総理の夫、という名の恋

by 石破茂 | 👍 5 いいね

山本拓は、まだ夜明け前の官邸の書斎で、ひとりコーヒーを啜っていた。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光は弱々しく、まるで彼の胸の内を映すかのように揺れている。

「……総理の夫って、こんなに大変だったかねぇ。」

誰に向けるでもない独り言は、もう日課になっていた。

今日も高市早苗――早苗は、夜通しで会議が続いている。
世界の情勢、党内の駆け引き、記者会見、国際交渉。
そのどれもが彼女の肩にのしかかり、彼女はそれを当然のように受け止めて歩く。

たしかに誇らしい。
けれど、夫としては、正直に言ってしまえば少しばかり寂しい。

「なんで総理なんかに……いや、わかってるんだけどねぇ。」

昔から、彼女は強かった。
一直線で、理論的で、誰よりも真剣に日本という国を思っていた。
惚れた理由もそこにある。
だけど、惚れた相手が総理になるというのは、思っていた以上に落ち着かないものだ。

官邸の警護の視線に慣れたと思ったら、今度はSPにまで「ご主人、外出先のルートはこちらで」と丁寧に誘導される始末。

「わしの散歩道くらい、わしが決めたいんだがねぇ……」

そう愚痴りながらも、心のどこかで誇ってしまうのだから、困ったものだ。

ふと、スマートフォンが震えた。
画面には、短いメッセージ。

──『まだ終わりそうにありません。帰れそうなら帰っていてください』

山本は、読みながら苦笑した。

「まったく……。あなたはいつもそうやって、自分のことより国のことばかりだ。」

ソファに沈み込み、天井を見上げる。

言いたいことは山ほどある。
もっと家でご飯を食べてほしいとか、寝不足が心配だとか、たまには夫の手料理を褒めてほしいとか。
総理の夫という肩書は、世間には華やかに映るかもしれないが、実際のところはただの“心配症の男”でしかない。

けれど、そんな愚痴のすべての奥には、たったひとつの想いが隠れている。

「……早苗。あんたが笑ってくれていれば、それでええんだ。」

その瞬間、玄関の鍵が静かに開いた音がした。

「ただいま戻りました……。まだ起きてたんですか?」

疲れを隠しきれない声。だが、微かに柔らかい。
山本は立ち上がり、彼女のコートを受け取る。

「総理、こんな時間まで働いて。少しは夫の心労も考えてくれんと。」

そう言うと、早苗は珍しくくすっと笑った。

「ふふ……心配かけてますね。でも、あなたが待っていてくれるから、頑張れるんです。」

胸の奥が温かくなる。
愚痴も文句も、すべてこの一言で帳消しになるのが悔しい。

「まったく……。そんなこと言われたら、また惚れてしまうじゃないか。」

「なら、惚れ直してもらえるよう、明日も頑張ります。」

机の上には、二人分のマグカップ。
夜は深いが、心の距離は近い。

山本はそっと、彼女の手を握った。

「早苗。総理の夫は大変だぞ。けど……あなたの夫であることは、悪くない。」

早苗は照れたように微笑む。

──総理である前に、彼女は愛しい妻だ。

その事実だけが、山本の愚痴を甘いものへと変えていくのだった。

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